駄文

精神面での成長について考えたときに、何が一番難しいだろうかと思った。
赤子が成長していく過程で他人と関わる中で求められる成長は他人の容認である。
自分の生理的欲求から始まる自己のあらゆる欲求は、他人との関わり合いの中で征服しなければならなくなる。
自己欲求の征服は他人を容認することが条件となる。
他人を容認しないならば自己の欲求を求め続けることができる。
他人を容認するならば自己の欲求を抑え込まなければならない。
社会で生きるためには他人と関わる必要がある。
自分を社会に受け入れてもらうためには、自分が社会を受け入れなければならない。
自分が社会を受け入れるということは、自分が他人を受け入れることである。
自分が他人を受け入れるということは、自分が他人の存在を容認することである。
他人の存在を容認するということは、他人を理解することではない。
他人の存在を容認するということは、他人を肯定することではない。
他人の存在を容認するということは、他人を好きになることではない。
他人の存在を容認するということは、他人と関わることではない。
他人の存在を容認するとは、他人が他人として存在することを許すことである。
社会が自分を受け入れてくれるということは、社会が自分の存在を許すことである。
他人が自分を受け入れてくれるということは、他人が自分の存在を許すことである。
他者のことを理解する必要も肯定する必要も好きになる必要も関わる必要も無い。
必要なのは他人が他人として存在することを許すことだけである。
自分が他人を容認するように、他人は自分が自分として存在することを容認する。
生きていくためには他人が他人であることを許す必要がある。
それは生きていくためにはどうしても必要なことであるから、ほとんどの人間が自然と会得していく。
したがって、他人を許すことは生きていくうえで難しいことではない。

そうであるならば、それよりも難しいこととは何なのか。
そのひとつは、自分の容認だと考える。
自分の容認とは、自分が自分であることを許すことである。
それというのは、社会で生きる中で他人が自分に求める在り方を拒絶し、自分が追い求める理想像を捨て去ることを意味する。
自分が自分として存在するということは、その在り方に他人の干渉する余地は存在しない。
自分の価値判断で言動を決定し、自分の言動の結果を自分が丸々受け入れる。
自分が自分として存在するということは、その在り方に理想像という正解は存在しない。
自分の言動は今の自分を根源とし、それこそが自分なのである。
自分の言動を自分の第三者的視点で見たときに、もっと良い選択があったとか、まだ幼いとか、こうすればよかったとか思うだろう。
それでもそれが自分なのである。
もっと良い選択ができたのかもしれないし、もっと大人になれたのかもしれないし、別の道があったのかもしれない。
けれども、もっと良い選択をする自分も、もっと大人な自分も、別の道を見つけ出した自分も存在しない。
自分を容認するとは、そんな自分を許すことである。
勘違いしてはいけないのは、最善手を追い求める必要が無いということではない。
当事者としての自分が考え得る最善を尽くした結果がどういう形であってもそれを受け入れて認めるということである。
結果論的視点で見れば改善の余地があったり未熟だったりするのかもしれないが、当事者としての自分はそんなことを考えてはいない。
考えていないならば、自分とは、その選択をした自分である。
結果を振り返って次につなげるという作業はもちろん必要である。
その結果を否定したり蔑ろにしたり貶めたりする必要は無いのである。
なぜか。
それが自分だからである。


思いついたままに書き進めたから何について書いているのかだんだん分からなくなってしまった。
せっかくだから残すけれど、多分読み返すことはない。