雑感

小学生から高校生までの間に学べる事とは何なのだろうか。

この6歳から18歳までの間に学べることは何なのか。

 

学ばされることは具体的な知である。

インターネットが普及して情報が氾濫している現代に於いて、最低限以上の情報を詰め込む意義とは何なのだろうか。

生きていくうえで最低限必要な知とは何を指しその程度はどれぐらいなのだろうか。

 

生きていくことだけを条件にするのであれば、現代社会では言語の読み書き喋りができれば生きる道はあるだろう。

その最低限だけを子供に教育しさえすればそれ以上を求める必要は無いのだろうか。

 

人間が社会にでたときに求められる知とはいったいどのようなものなのだろうか。

古典文学の教養なのか、立式して解を求めることなのか、アクセントの位置を知っていることなのか、周期表なのか、等々。

これらの学ばされる具体的知を社会でそのまま用いる機会がいったいどれだけあるのだろうか。

 

社会は変動し続けている。

その変動は動態的かもしれないし静態的かもしれない。

発展しているかもしれないし停滞しているかもしれないし衰退しているかもしれない。

今の日本社会の状態をどう表現しようとも、今の世界の状態をどう表現しようとも、それが自分の与えられた舞台である。

 

運よく煌びやかな舞台に立てれば華々しい演技ができるのだろうか。

舞台の上で魅せる演技をする人はいったいどういう人なのだろうか。

偶然その舞台に上がることができた人なのだろうか。

 

 

社会が求めている能力なのか、はたまた社会に出て活躍するために必要な能力なのかは分からない。

ひとつ言えることは、6歳から18歳の間に学ぶべき事というのは、学ばされている具体的知は教養として必要だが、その学ばされている事を通して学べる事ではないのだろうか。

 

今年で23を迎え、大学もろくなところに進学しなかった人間の戯言である。

 

社会が求める能力の1つは、『やるべきことをやることができるか』という至極簡単なことである。

これを6歳から18歳の学生に置き換えると、学生にとってのやるべき事は勉強である。

社会はこの能力を持っているかどうかどう判断するのだろうか。

その分かりやすい基準が学歴である。

学生にとってのやるべきことである勉強をしてきた人間は必然的に学生の中で上位に浮き上がってくる。

普通に考えれば、いわゆる偏差値の高い大学に合格できた人というのは、学生時代にしっかり勉強をしてきたことを意味する。

つまり高学歴であればあるほど、やるべきことを逃げずにやりぬいてきたことを証明する。

故に社会は学歴を求める。

さらにこの点だけで言えば、同レベルの大学では、私立よりも5教科を求める国公立の方が上に位置する。

 

社会が求める能力の1つは、『必要な知識を身に着ける力』である。

必要な知識を身に着ける力とは、そのままの意味である。

この世に存在するすべてのものはいつか必ず潰える。

社会に出て構成員になった時、例えば会社に勤めたときにはその会社で働くうえで必要となる知識を身につけなければならない。

それはマナーかもしれないし業界特有の作法かもしれないし会社特有のセールス方法かもしれない。

どこに身を置いたとしても、その場で活動するためには前提となる知識が求められる。

また、この世に存在するすべてのものはいつか必ず潰える。

自分が所属していた企業や業界やコミュニティが潰えたとき、生きていくためには次を見つけなければならない。

その時に求められるのもやはり新天地で活動するうえで前提となる知識である。

その時その時に求められているものを身に着けていくことはいつになっても必要な能力である。

6歳から18歳の学生にとってのこの力とは、学ばされる具体的知をどうやって理解して覚えて会得するのかというHowの部分である。

会得するというのは、それを自分の言葉で説明できて実際にやってみせることができる状態を指す。

自分をそこまでの状態にもっていくためにはどうすれば良いのかという部分が、必要な知識を身に着ける力である。

求められているのは知識そのものではなく、それを身に着ける能力を持っているのか、持っているならどの程度洗練されているのかである。

 

社会が求める能力の1つは、『相手に理解してもらえる説明力』である。

これもそのままの意味である。

社会に出れまず求められることは自分が実績を上げることである。

自分の実績作りの後に求められることとは何か。

それは後継者の育成である。

簡単に言えば後輩や部下の育成である。

社会が求めるのは抜きんでた結果を出すスーパーマンではなく、多くの人間が結果を出せるように教育をすることができる人間である。

他人を教育するうえで必要なものは結果を出す知識だけではなく、それを相手に理解してもらう論理力だったり表現力だったりするものである。

6歳から18歳の学生にとってのこの力は、例えば現代文の論理的読解であったり、数学の理路整然とした答案であったり、日本語にはない英語特有の表現であったりに見ることができる。

 

 

といった具合に、本来6歳から18歳までの学生が学ぶべき事というのは、具体的知もそうだが、それを通して身に着けられる能力である。

ここには3つだけ記載したが、実際にはもっと多くのことを求められる。

この3つだけでも身に着けられている学生がどれだけいるだろうか。

身に着けられていてもそのレベルはどうだろうか。

少なくとも自分は他人に説明する能力が乏しい。

この文章を読んでいてわかると思う。

ただ言い訳をするなら、このブログは思いついた順番に書き並べ、時間をおいて推敲をしないから、どうしても脈絡や表現がおかしい部分が残ってしまう。

 

また時間があって気力があったら雑感として上記以外の能力についても書いてみようかと思う。

そもそも誰も読まないブログだから、自分以外の読者を想定した記事はきっと無駄骨に終わるのだろうけれどね。